子どもは世界の捉え方が違う?普段と違う角度から世界を見るためのヒント
大人は日常生活の8〜9割の情報を視覚から得ていると言われていますが、子どもには手で触れることや匂い、温度感などの視覚以外の感覚からの体験もとても大切です。今回は普段と違う角度から世界を見るためのヒントをお伝えします。
大人の世界は視覚からの情報が8〜9割
人間には「視覚」「聴覚」「嗅覚」「触覚」「味覚」などに代表される感覚が備わっていますが、私を含めて目が見える人の場合、日常生活において8〜9割の情報を視覚から得ていると言われています。
物との距離感から質感、状態などのおおよそを目で見た情報で判断しており、音や匂い、手触りなどの情報は補足情報として捉えています。
大人は日常の中で触覚を使う行為、つまり「触れて確かめる」ことをあまりしていません。何にでもベタベタ触れるのは品がないと捉えられることも関係しているかもしれませんが、成長と共に触覚に関する情報を経験から補うようになります。
コンクリートの壁を見れば無条件に「固くて冷たい」感触を想像するでしょう。「本当にそうかしら?」とあえて触って確かめる人は少ないと思います。
自分の目的外のことはあえて「確かめない」ことで処理スピードが上がり、生活が効率的になります。つまりは目の前を通り過ぎても、そのまま捨てている情報が多いのです。
子どもは視覚以外からも敏感に感じ取っている
一方、子どもにはそういった「経験値」がありませんので、なんでも体験から学習します。子どもも視覚優位ではありますが、特に3〜6歳児は視覚以外の情報に対しても高い感受性を持っています。
何しろほとんどの事柄が「初めて」の経験ですから、よく触って確かめる必要があるのです。急いでいるときでも道端の草花が気になれば構わずしゃがみ込み、面白い形の石があれば拾ってポケットにしまい、変わった音がすれば立ち止まって出所を確かめようとします。
大人には厄介に感じることもあると思いますが、子ども時代の豊富な実体験ほど子どもの学びを豊かにするものはないと思います。実際、子どもは大人が見落としがちなことによく気がつきます。
先日もこれを実感するエピソードがありました。公園までの散歩道を子ども達と歩いていたときのことです。いつも通っている見慣れた通りに突然空き地ができていました。昨日までそこに建物があったはずなのですが(おそらくは何かのお店だった気がしますが)、何だったのか一向に思い出せませんでした。
すると子ども達が間髪入れずに「自転車のお店だった」「黄色の自転車が置いてあった」「お店のお兄さんが手を振ってくれた」などと口々に言いました。さらに「先生はどうして覚えていないの?」と聞いてきました。
とっさに「先生はお店よりもみんなが安全に歩けるか、車がきていないかということを気にしているからだよ」と言い訳をしてしまいましたが、毎日見ている風景だからこそ、見えていなかったのです。
また別の寒い日には、公園でビニールテープと新聞紙を使って小さなテントを作りました。木にくくりつけたビニールテープに新聞紙をペタペタ貼って作ったテントは子ども達がしゃがんでようやく入れるくらいの大きさでしたが、中に入ってみると新聞紙1枚なのにとても暖かく感じました。
「風を防ぐと暖かい」ということを発見した子どもは、後日落ち葉をたくさん集めて虫のための「お布団」を作っていました。土の上だと虫が凍えてしまうけど、お布団があればあったかいと考えたようです。たくさん重ねた落ち葉の中に手を入れて「うん、あったかい。これなら虫も寒くない。」としっかり触れて確かめていました。
見えていない、感じていないということは、その事柄は「ない」ということと同じです。子どもが五感をフルに使って感じとっている世界とはそれだけ情報量が多いわけですから、きっと大人の世界とは全く別なものなのでしょう。時間の感じ方も違うのかもしれませんよね。
私は時々子どもと一緒になって土を触ったり匂いをかいだりしながら、普段見ていない別の角度からの世界を感じようとしています。その感覚を共有すると、子ども達の気持ちが少し理解できるような気がするからです。
「世界の別の顔」を感知するスペシャリストのおはなし
私も普段から子どもの視線の先をよく見るように努めていますが、自分とは違う誰かの世界を想像するのはなかなか難しいものですね。そんなときにはいい本がありますので、ひとつ紹介させてください。
東京工業大学で美学、現代アートについて教えている伊藤亜紗さんの著書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)です。人気絵本作家、ヨシタケシンスケさんの『みえるとかみえないとか』の元になった本ですので、すでにご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
主に視覚に障害のある人が視覚以外の感覚をどのように使って世界を認識しているかがさまざまな角度から語られている本ですが、これを読むと子どもがどのように世界を捉えているのかを知るヒントにもなると思います。
例えば、私たちが「見る」と言えば大抵目からの情報のことを指していますが、視覚のない世界で音の反響具合から部屋の中の位置関係を知ることは「聞く」というよりも「見る」という感覚に近いのかもしれません。
足の裏の感触で畳の目の向きを知覚し、そこから部屋の壁がどちらに面しているかを知る、あるいは、音の反響具合からカーテンが開いているかどうかを判断し、外から聞こえてくる車の交通量からおよその時間を推測する。人によって手掛かりにする情報は違いますが、見えない人は、そうしたことを当たり前のように行なっています。
世の中の多くが「目が見える人」という前提で作られている以上、見えないということは大変なハンディキャップです。だから私たちはつい見えない人の不便にばかり目を向けてしまうわけですが、本書ではそこには「私たちの知らない別の世界」があると捉えています。
私たちは目で捉えた世界が全てだと思い込んでしまいます。しかし、耳で捉えた世界や手で捉えた世界があってもいいはずです。物理的には同じ物や空間でも、目でアプローチするのと、目以外の手段でアプローチするのでは、全く異なる相貌が現れてきます。けれども私たちの多くは、目に頼るあまり、そうした「世界の別の顔」を見逃しています。
見えない人にはそれに変わる感覚の使い方があります。「見えない人」と「見える人」のどちらが優れているということではありません。その良い例として、ソーシャル・ビューという「見えない人」と「見える人」が一緒になって美術鑑賞をする取り組みが挙げられています。
ソーシャル・ビューではひとつの作品について「見える人」が大きさや形状、色、質感などをできるかぎり詳細に伝えます。「見えない人」は頭の中に作品のイメージを浮かべながら、わからない部分について質問していきます。
「描かれている女の人は何歳くらいの人?若い?それとも少し歳をとっている?」はじめのうちの質問は、見た目に関して追加の情報を求めるものかもしれませんが、いつしかやりとりはそこに描かれていない部分に及んでいきます。
「その人はどんな状況なのか?」「どんな気持ちなのだろうか」のような「読み解き」の部分に至っては、「見えている人」も「見えていない人」も同じ条件です。お互いのやりとりが作品についての情報を補い合って、より深い鑑賞ができるところが面白いと思います。
この本を読むと、普段の自分のものの捉え方がいかに狭いかということに思い当たります。ぜひ親子で読んで、新しい世界に触れてみてはいかがでしょうか。
*ヨシタケシンスケさんの絵本「みえるとか みえないとか」の対象は4歳児からとなっていますが、親子でじっくり話し合ってみる題材としては小学生にも良いと思います。