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SNSの追撃、どこまでが正義?親として考えたいネットリテラシー

最近のSNSを見ていると、誰かが問題を起こした瞬間、一気に“炎上”し、その後ものすごい勢いで“追撃”が始まることがあります。コメント欄は批判で埋まり、過去の言動まで掘り返されて気づけば袋叩き。もちろん、悪いことをした人が責任を問われるのは当然です。でも最近、「これって本当に正義なのかな」と、個人的には怖くなる瞬間が増えました。
これから子どもたちは、私たち世代以上にSNSが身近な時代を生きていきます。だからこそ今、親として「ネットリテラシー」について改めて考えさせられました。
“正義”が過熱していく怖さ
最近のSNSを見ていると、誰かが問題を起こした瞬間、ものすごい勢いで“追撃”が始まることがあります。
「やっぱり昔から嫌な感じだった」
「前から無理だった」
「実はこんなこともされていた」
そんな投稿が次々と現れ、引用され、さらに拡散されていく。でも、それが本当に事実なのか、見ている側にはわかりません。それでも一度広まった情報は、“みんなが言っているから本当っぽい”空気になっていく。
ここ最近のSNSを見ていて怖かったのは、「悪いことをした人を批判すること」と、「大勢で追い詰めること」の境界線が、どんどん曖昧になっていることでした。大前提として、悪いことをした人が責任を問われるのは当然です。でも気づけば、“自分は正義側にいる”安心感のまま、自分とは直接関係のない人を叩くことに慣れてしまっているのかもしれないと感じることがあります。
顔が見えないSNSは、言葉のブレーキが外れやすい
SNSは便利です。知りたい情報もすぐ入るし、共感できる人ともつながることができる。でもその一方で、顔が見えないからこそ、言葉を発するハードルが下がりやすい場所でもあると思います。面と向かってなら言わないことも、スマホ越しだと書けてしまう。そして、たったワンクリックで一気に広がっていく。
誰かを傷つけるつもりがなくても、気づかないうちに追い詰めてしまうこともある。その広がり方を見て、私はある意味、正体不明の感染症より怖いと感じることすらありました。
一度拡散された言葉は、完全には消えません。軽い気持ちの投稿が、誰かの人生に長く残ってしまうこともあるのです。
“書かない勇気”もネットリテラシー
だからこそ自分がSNSで発信する時も、「この言葉を読んだ人がどう感じるのか」を以前より考えるようになりました。自分の正義だけを振りかざしていないか。勢いで誰かを傷つけていないか。書き方ひとつ、捉え方ひとつで、言葉は簡単に“武器”になってしまう。それがSNSの怖さであり、落とし穴だと感じています。
そして、こうしてブログを書いている立場だからこそ、発信の向こう側にはたくさんの人がいるということを、改めて胸に刻みたいと思いました。投稿する前に何度も見直すこと。そして時には、“書かない”という選択をすることも大切なのだと思います。正直、こういう意見を書くこと自体、「偽善」「きれいごと」と言われるのかもしれません。
それでも、これから子どもたちはもっと自然にSNSに触れていく時代になります。便利だからこそ怖さもあるSNS。親である私自身も学びながら、「どんな言葉なら相手を傷つけないのか」「ネットで本当に大切なことは何か」を、これからも親子で考えていきたいと思いました。
「書く自由」と同じくらい、「書かない勇気」も大切にしたいと思いました。
…でも今回は、どうしても書かずにはいられませんでした。
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